食卓を囲んで
さいちゃんから、机を頂いた。
机はいい。大きくてどしっとしていていい。ずっと欲しかったのだけれど、ちゃぶ台を使ってた。先に食べさせた娘が我々の食事をさらに欲しがり摘まもうとするので参っていた。
これで安心、と思っていたらやはり足にまとわりついて指を差しその後に手を合わせている。これを食べさせてくれ、というサインなのです。ああ、子どもを甘く見てはいけないなと思う。手に触れられ無い位置にあるものが欲しければ、それを伝達する手段をしっかり獲得している。無視するとこれが床に寝そべって足をドタバタして怒るんだなあ、誰に似たんだか。しかしとにもかくにも、食いしん坊なのはいいことです。
机を届けてもらったことと、夫の健康診断の値を見てこれはまずいなと思ったことが重なり、(遺伝的に尿酸値が高いんだそうです)ちょっと食生活を見直していくことにした。
と言っても、マクロビとか、そういう手の込んだ難しいことは出来ないので、あたしの母に作り方を教えてもらい自分が家族と囲んだ食卓を再現しようと思ったのだった。
高野豆腐を炊いたのとか、タッパーに入った佃煮とか、大根と白菜を薄味でただ炊いただけのものがどーんと大皿に乗ったやつとか、そういうやさしい献立みたいなものはやはり実家を出てから作ったことがなかった。そういうものは高校生だったあたしにとってはものすごく「ダサい」献立であり、友人の家でアラビアという種類の皿に乗って出て来たペペロンチーノを食べて完全にそういう暮らしが憧れのすべてになっていた。(アラビアというお皿、今でも見かけると本当に綺麗で欲しいなあ、と思う) うちの皿は本当に信用金庫からもらったお皿とか、奮発してセットで買ったのにいくつか割れてちぐはぐなものとか、キャンペーンでシールを貯めて応募したやつとか、とにかく統一感もないお洒落の欠片もない食器たちで、当時のあたしの「我が家の食卓はダサい。」という考えを更に後押ししていたのです。
決して器用ではないタイプの母、先日電話で食卓や献立のことを話していると、「料理に関して言えることは、とにかく頑張り過ぎないこと。華やかに見せようと思わなくていい、みんなの栄養になるように足りないことがないように作りなさい。」ということを言われた。頑張り過ぎない。これはとても大事なことだと思いました。日々続いて行くことだもの。
食卓を囲むのは素晴らしいことだ。
家族や好きなひとと同じご飯を食べるということは。明日の献立を冷蔵庫の中身を考えながら振り絞ることが。野菜を刻むということが。お茶碗を割らないようにそっと拭いたり置いたりすることが。
ずっとつづいてきたんだろうなと思うし、こればかりはこれからもつづくんだろうなと、あたしは思うんだ。
1月17日
夕餉:出石そば(薬味は葱と生姜)、レタスとナッツのサラダ、白米(娘のご飯の余りを夫が食べた)、高野豆腐炊いたやつ、鮭焼いたやつ、ほうれん草のおひたし。
1月18日
夕餉:白米、高野豆腐炊いたやつの残り、味噌汁(若布、豆腐、馬鈴薯、麩)、えびの焼売、小松菜とあぶらげ炒めたやつ。