菜の花を食べる。

菜の花を食べるのが好きだ。

少し苦い、春の味がする食べ物が好きだ。

おひたしにしてもいい、胡麻和えにしても。

茹でて固く絞ってから牛肉と炒めてもいい。

菜の花を食べるのが好きだ。

 

昔、弟に菜の花が好きだという話をすると盛大に馬鹿にされたことがある。

それは気持ちの問題であり、菜の花を食べるということが素晴らしいことだと錯覚してる、なんてことを言って大人びた弟に笑われたのでした。

そうかもしれんなんてその時は思ったりしたけれど、やっぱり菜の花の味も見た目も、このそわそわした時期にスーパーに並びだすのも全部好きやねん、と、あたしは思うねん。

そうこの間出会った弟に言うと、菜の花について我々が交わした会話自体を覚えてへんかった。

 

 

 

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花を食べるなんて不思議なことではないですか。

 

 

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2月22日

夕餉:白米、おでん、アイスクリーム

 

 

 

色々なゴシップやニュースがやって来ては去って過去になる。

この疾走感に時の流れのやるせなさを感じる。過去になっても胸に残る何か。

一体それとそうじゃないものとの差はなんなんやろう。そういうことを考えているから根暗やよなあと思うねんけども、そんなことをひっくるめてまだなお凄まじいスピードで今が過去へと。

いつしかみんな忘れられる。時が経ち若い子たちが世の中を動かしていく。

まだまだ食後にアイスクリームを食べる日々を止められそうにない。

向上心の無いものは馬鹿だ、という漱石の小説を思い出しています。

向上心てのはなんだってんだ。教えて漱石先生。

 

娘がよく寝ている。隣に潜り込んで、おやすみなせい。

 

 

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食卓を囲んで

さいちゃんから、机を頂いた。

机はいい。大きくてどしっとしていていい。ずっと欲しかったのだけれど、ちゃぶ台を使ってた。先に食べさせた娘が我々の食事をさらに欲しがり摘まもうとするので参っていた。

これで安心、と思っていたらやはり足にまとわりついて指を差しその後に手を合わせている。これを食べさせてくれ、というサインなのです。ああ、子どもを甘く見てはいけないなと思う。手に触れられ無い位置にあるものが欲しければ、それを伝達する手段をしっかり獲得している。無視するとこれが床に寝そべって足をドタバタして怒るんだなあ、誰に似たんだか。しかしとにもかくにも、食いしん坊なのはいいことです。

 

机を届けてもらったことと、夫の健康診断の値を見てこれはまずいなと思ったことが重なり、(遺伝的に尿酸値が高いんだそうです)ちょっと食生活を見直していくことにした。

と言っても、マクロビとか、そういう手の込んだ難しいことは出来ないので、あたしの母に作り方を教えてもらい自分が家族と囲んだ食卓を再現しようと思ったのだった。

高野豆腐を炊いたのとか、タッパーに入った佃煮とか、大根と白菜を薄味でただ炊いただけのものがどーんと大皿に乗ったやつとか、そういうやさしい献立みたいなものはやはり実家を出てから作ったことがなかった。そういうものは高校生だったあたしにとってはものすごく「ダサい」献立であり、友人の家でアラビアという種類の皿に乗って出て来たペペロンチーノを食べて完全にそういう暮らしが憧れのすべてになっていた。(アラビアというお皿、今でも見かけると本当に綺麗で欲しいなあ、と思う) うちの皿は本当に信用金庫からもらったお皿とか、奮発してセットで買ったのにいくつか割れてちぐはぐなものとか、キャンペーンでシールを貯めて応募したやつとか、とにかく統一感もないお洒落の欠片もない食器たちで、当時のあたしの「我が家の食卓はダサい。」という考えを更に後押ししていたのです。

 

決して器用ではないタイプの母、先日電話で食卓や献立のことを話していると、「料理に関して言えることは、とにかく頑張り過ぎないこと。華やかに見せようと思わなくていい、みんなの栄養になるように足りないことがないように作りなさい。」ということを言われた。頑張り過ぎない。これはとても大事なことだと思いました。日々続いて行くことだもの。

 

食卓を囲むのは素晴らしいことだ。

家族や好きなひとと同じご飯を食べるということは。明日の献立を冷蔵庫の中身を考えながら振り絞ることが。野菜を刻むということが。お茶碗を割らないようにそっと拭いたり置いたりすることが。

ずっとつづいてきたんだろうなと思うし、こればかりはこれからもつづくんだろうなと、あたしは思うんだ。

 

1月17日

夕餉:出石そば(薬味は葱と生姜)、レタスとナッツのサラダ、白米(娘のご飯の余りを夫が食べた)、高野豆腐炊いたやつ、鮭焼いたやつ、ほうれん草のおひたし。

 

 

1月18日

夕餉:白米、高野豆腐炊いたやつの残り、味噌汁(若布、豆腐、馬鈴薯、麩)、えびの焼売、小松菜とあぶらげ炒めたやつ。

 

Polaris - 檸檬 - YouTube

 

 

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スカート

スカートをここしばらく履いていない。動きやすい太目のズボンばかり履いている。

なんだかなあと思わなくもない。それでも明日もあたしは太目のズボンを履くのだと思うのです。

 

スネオヘアーのCDを一枚だけ持ってる。夫は結婚する前に何枚か持っていたと思う。

スネオヘアーの曲をあまり知らない、でもスカートというアルバムがあるというのは知ってる。ただそれだけなのにスカートと聞いたらまずスネオヘアーの顔が浮かんでくる。変なの。本当に変なものである。

 

何年かに一回くらい、平穏で何も悩みが無いのに凄まじく泣いてしまう時がある。

こういうことを書くと頭がおかしいんじゃないかと思われる気がしてしまうんだけど、大抵その前日くらいからこりゃまずいなあという兆候が表れるのです。何をしても倦怠感しかない、すっきりしない、ああこれは泣かないと治らないんだなと思う。

昨晩、ものすごい何に対してかわからんけど「疲れた。」とばかり言うて嗚咽した。ここ数年なかった感覚だった。泣いても泣いても涙が出るので困った。別に娘の育児につかれたとかそんなんじゃない、うんこれには本当に嘘は無いんだけど、とにかくもう泣かざるを得ない、疲れたと言いながら泣かざるを得ないそんな感じだった。

頭の中ではスネオヘアーの「コミュニケーション」という曲がループしていた。なんでだかわからん。

夫はつかず離れず見守ってくれていた。ああまたこれが来たかと彼が思っているのがよく分かった。それでも泣かないと駄目だったのだ、でもだからと言って無理矢理泣いているわけでもないのだけれど。

 

今朝、やっぱりいつもと同じみたいに憑き物が落ちたみたいにすっきりしていた。

いつもの日常がやってくる、寒くなるけど晴れたらいいななんて思った。洗濯物を干しながら口笛も吹いていたし、いつものようにお味噌汁も作った。娘はやはりお味噌汁をたくさん食べた(具のみ)。

あああと数年は意味不明な嗚咽はないだろうと思って、頭の中で鳴り響くコミュニケーションのメロディをなぞった。すごく良い歌だと思った。

 

Communication - YouTube

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sleep,sleep,sleep

当たり前みたいに馴染んでいる事どもが、それが本当は物凄い稀有なことなんだって時折気が付く。そうしてまた忘れていく。いや忘れるというよりか、また日常に馴染んでいくという感じです。今までもずっとそうだった。

 

テレビをつけて、芸能人の結婚会見に微笑んだり、そういうことをしていると今がいつなのかここはどこなのかすごく曖昧な不思議な感覚に陥った今日でありました。

寒くて、セーターを着て、凝った肩を回している。何杯かコーヒーを淹れて飲んだ。

どうにも頭がしゃきっとしなくて。

夫の帰りは今週ずっと遅いそうな。今日も今日とてグレンミラーのCD聴いていた。

とてもとても長い一日だった。

 

これから寒くなるんだって天気予報のお兄さんがしきりに言うていて、

ああ明日はどんな服で出掛けようかと思う。

この街に雪は舞うのかな。

舞ってほしい。

 

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綺麗さっぱりだ

多分なんだけど、これからも今までもそう大きく変わらないんだなと思う。

感じたこととか。感じていくことが。

思ったこととか。思っていくことが。

だからどうとかではなくて、無理しなくてもいいんだと。ちょっと妥協。

 

 

年末年始は滋賀で過ごした。

前回の年末年始は言葉は悪いが酷いもので、夜も朝も無く、紅白をやっているのを眺めてああ年末なんだねえと言った感じだった。

だから、大掃除をして、模様替えをして、新たな家具を据えて、おせちを作って、紅白の星野源を見て涙ぐみ(悪阻の時ずっと地獄で何が悪いを聞いて乗り切った。今思えば悪阻に地獄も糞も無かろうと思うのだけれど、その時は終わりのない吐き気、まさに地獄にいると思っていた。お子に謝りたいくらい)初詣に行ってリンゴ飴などを頬張った今年の正月はなかなかどうして感慨深いものでありました。

にこにこ笑う夫とちょこちょこ歩く子がそこにいたことがやはり一番かなと思う。

そういう何気ない空気みたいに漂うそこはかとないゆるやかなしあわせにいつも支えられ背中を押される。

自分だけ孤独なんじゃない。みんな寂しい生き物。そして寂しくなくできる生き物。

 

 

カメラを買おうと思うのです。

学生時代に無理して買ったカメラ、もうぽんこつなそれがついに昨年壊れまして、

そろそろ時代に沿った新たな一眼が欲しいと思っていた。

4月から、遠足やら運動会やら始まるしというのが一番の理由なのだけれど、子どもや家族だけではなく、自分のすきなものを撮りたい。

海とか、道路とか、太陽の塔とか、女の子の横顔とかそんなのを。

 

 

娘はこんな時間から寝てしまった。

焼いた酒粕など食べながら、夫の帰りを待ちつつ向田邦子を読んでいます。焼いた酒粕が好物です。

クリスマス前から今ぐらいまでの、怒涛のhappy感に包まれた日々やそれに浮かれる人々がとても好きだ。

 

 

バイタルサイン【live】 / クラムボン - YouTube

 

 

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さよならネオンサイン

阪神高速を走っていたらいつも、大きな飛行機が頭上を横切っていくのに遭遇する。

夫はそれでいつも私を起こしてくれるのですが、それはそれは優しく起こしてくれます。ぼんやりしながら飛行機の腹を見上げる我々。

 

高速道路とか、飛行場とか、そういった人工建造物を見るのが好きだ。なんでだか分からない。

ダムとか鉱山を見るのは別に好きじゃない。

多分、都会にあるでかい人工建造物が好きなんだと思う。だから、スカイツリーとか見た日にはとても興奮するのだろうなと思っています。車から眺められたなら、尚良い。

助手席で時折CDとか変えながらうとうとして、やっぱり起こしてもらいたい。

大都会のネオンサインが見える車窓から、うとうとしながら手を振る。

帰るよ、さよならネオンサイン。

いつもこの時に感じる郷愁が心の片隅にある。

 

色んな人がいて、色んなことが起こる毎日であります。

だから、物凄く傷つけられて窮屈で、って思っていたけれどもしかしたらそんなことはないのかもしれないのだった。

負けないんだぜとは違う。挑発してやろうとかとも違う。

でもだけどだからと言ってもう書きませんてのはもっと違うなと思った。

色んなことがある中で、記してきたしこれからも記していきたいという自分の気持ちを大切にしてやりたいと思っている。

 

 

嘘偽りない、雑多な書き物を始めます。

続いて行く日々を。

 

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クリスマスなのでこんな曲ばかり聴いています。

 

千年紀末に降る雪は キリンジ - YouTube